簡単な
     
長文の

                                        2001.9.11

生まれ
 横須賀は衣笠病院で産声を上げたました。
横須賀市に住み二度の引っ越しのあと、三度目は横浜の住民になりました。
山も海もある三浦半島は離れてみて良さを痛感しています。
小学校、中学校、高校ともに市立に通う。
性格
 思いこみが激しくて、気が短くて、凝り性。口は災いの元。をいつも肝に銘じていますが、どうもダメ。結構面倒見はいいと思う。熱しやすくて冷めやすい。
趣味
 写真、旅、料理。興味が有るもの 環境問題、現在の食べ物事情、健康。園芸、読書。
今やってみたい物 絵手紙。
好き
富士山。トウモロコシ。温泉。鮨。
嫌い
内蔵系の肉。自分を省みないで偉そうに言う人。差別する人。
パソコン歴

 94年にマックを使い出す。しかし、いまだにマックに使われています。その前まではRUPOを使っていました。

家族
 夫が一人。子ども無し。少し前まではハムスター2匹が家族の一員。
しかし、いまは空の上。
職歴
 高校の時の菓子屋の店員のアルバイト。銀行の貸付係。時計眼鏡店の眼鏡部社員。中古車販売の事務のアルバイト。音響メーカーの社員。と何回か職を変えましたが、すべての経験が私の財産となっていて、そのときの人間関係も私の人生の肥やしです。
病歴
 水疱瘡、はしか、お多福風邪、自家中毒、アトピー性皮膚炎、腰椎椎間板症、アレルギー性鼻炎、慢性胃炎、飛蚊症、自律神経失調症、頸椎椎間板症。

習い事歴

お習字、そろばん、機械編み、着付け、お花、テニス、パン
ダイエット歴
 こんにゃくダイエット、粉ミルク、水ダイエット、ダンベル、鈴木式
信条
自然回帰。どうにかなるさ。温故知新
自給自足の生活。田舎暮らし。都会の心のオアシスを求めたい。

                    

 

 

 

書いていたら長い長いものになってしまいました。こんな長い文章はきっと読んでもらえないかも知れないけど、自己満足の世界です。
2002年12月更新 資格追加

生い立ち

性格

趣味

パソコン歴

家族

職歴

病歴

習い事

信条

資格

 

横須賀は衣笠病院で産声を上げたました。横須賀市に住み二度の引っ越しのあと、三度目は横浜の住民になりました。
 山も海もある三浦半島は離れてみて良さを痛感しています。
生い立ち

 小学校、中学校、高校ともに市立に通い、小学校の時は引っ込み思案で、暗い子、仲間はずれにされた覚えもあります。
 中学時代に私の考え、生き方に影響を与える先生お二人に出会い、今の私が形成されました。中学では根に持っていた出しゃばりが目を出してか、生徒会の役員までやってしまった。

 上級生と一緒の活動は、私の人生の中でいい経験でした。学校自体が生徒の自主性を重んじてくれる所だったので、生徒会の活動も活発で大変でしたが、やってよかった。と今でも思っています。
 同級生間の絆が強いのか、中学の想い出は数多く、そして、同窓会を二年に一度開き、そのほかにも事あるごとに、なんだかんだと理由を付けて、仲間で会っています。卒業してから何十年もたつのに、15才のままで、利害関係なく話せるのは、何とも良き財産です。
 人生の折り返しを過ぎて今まで、いろいろな人に出会い、いろいろな影響を受けてきましたが、やっぱりあの二人の先生から得たものは大きかった。出会っていなければ、もっと暗い性格の人間が出来上がっていたかも知れない。

 

 高校の時は中学の時にいろいろと体験させてもらい、自由に過ごしたので
これと言って、想い出もないような。ごく普通の学校生活。ただ、女子クラスという特殊な環境だったので、男女クラスでは体験できない事もありました。40数年の人生で女だけの時間を過ごした唯一の時でした。

 金銭面で親から早く独立したかったので、進学はせずに社会に出ました。毎日会社に行っているときに、同年代の人間が大学に通いもせずに、偉そうなことを言っていることになぜか腹立たしかった記憶が有ります。大学に行くってなんなんだ。と思いました。
 36才の時に、意を決起して家を出てアパートで一人暮らしを始めました。パラサイト族とは思ってはいないけど、トラウマになっている親に独立したいことを伝えることが6年以上も出来なかったのです。
 一人暮らしは何とも快適なものでした。好きなときにお風呂に入り、好きな時間にご飯を食べる。食生活は充実しすぎて食べ過ぎの毎日でした。日当たりのいいベランダでは80鉢近くのハーブを育てました。今まで、植物はすぐに枯らしていたのに、1人で暮らすと鉢にまで気が回るらしい。

 25才の時に、占い師に見てもらったら、大器晩成型で晩婚と言われました。晩婚かと思っていたら、37才で縁有って結婚しましたが、大器晩成が何を意味しているか未だにわからず来ています。
 父はA型母AB型で私はA型。付き合いの浅い人からはO型と言われ、付き合っていくと典型的なA型と認識されるらしい。

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性格
 思いこみが激しくて、気が短くて、凝り性。口は災いの元。いつも口で何かの失敗をし、反省の毎日。結構面倒見はいいと思う。熱しやすくて冷めやすい。
 最近物忘れが非常に多くなった。記憶力は抜群と自他共に認められていたけど、それも過去の栄光。
 口癖はアチャー。思い立ったら吉日と事をはじめる割には吉と出ず。図太い性格のように人には見えるらしいが、図太いのではなく、開き直りなんだと最近は思う。
趣味
 何が趣味かわからないほどいろいろ興味がる。熱しやすく冷めやすい性格が趣味にも表れている。

 写真は小学校の5年頃に父親のカメラに興味を持って使わせてもらう。今で言うレンジファインダー、二重焦点レンズでした。撮るだけ撮っていました。とにかく撮ることが楽しかったのです。大人の人が撮っても頭が切れることが有るのに、私のアングルはしっかりしたものでした。
 中学一年の時に、コダックのポケットカメラをお年玉で買ってからは、あのカセットフィルムのカメラは私の友達でした。高校の二年でオリンパスのカメラを買うまで撮りまくりました。

 その後、働いてから2度目のボーナスでペンタックスのMEを買い、一眼レフを初めて手にしたのでした。今のカメラよりもとても重いのにどこに行くにも持って出かけました。そのカメラで富士山を5年間、夢中で追いかけました。三浦半島のどこでどの位置で富士山が見えるかほとんどを網羅していました。
 MEのシャッターが何度も壊れてしまい、修理代もかさんだのでしかたなく、ペンタックスのSFXを購入。オートフォーカスのカメラに初めて出会うが、やっぱりマニュアルがいい。

 高校の時に写真部に二年ほど在籍したものの、写真の技術は全然上達はしない。引き伸ばしは楽しくて、興味のある人間を撮って、四つ切りのパネルにして、プレゼントしました。あの写真は今はどうしているんだろう。ただ撮るだけって状態で今まで来ています。
 富士山、子供、草花、消えゆく町が私の写真のテーマになっているようです。子供は友達の子供を産まれたときから幼稚園まで定期的に撮り、草花は同じ公園の桜の開花記録や草そのものを撮っています。草でも見かけなくなってしまうものか有るのです。

 今はデジカメのFinePix1500、CONTAX T3、ペンタックスMZ-5を持っています。CONTAXは今年の春に買ったばかりで、まだ10本ほどしか撮影していません。本来不精者故、ネガやプリントの管理が面倒で、もっぱらデジカメの出番が多くなっています。旅の写真はデジカメになってしまった。

 

 の初めは家族旅行。記憶にあるのは熱海の温泉。遠かったなぁ。運転手父親が道に迷って、旅館の周りをぐるぐる。
初めて友達同士で出た旅は高校二年の冬休みの京都。
初めての夜行寝台列車の旅は高校の修学旅行で、岡山から西鹿児島。
初めての一人旅は21の時の仙台。
初めて自分で運転して出かけたのは、八ヶ岳。
初めての飛行機の旅は21の時のツアーの北海道。
初めての18切符の旅は37才の房総半島。
初めての座席夜行は急行信州、春に更埴市にアンズの花を見に行ったのでした。
 その後もいろいろと出かけました。いつの間にか、日本全国制覇が目標になってしまいました。海外は日本を制覇してからといまだに海外へは一度も行っていません。
 achaの旅に出来るだけ書きたいです。

   料理も趣味かも知れない。けっこうストレス解消になります。創作料理、アレンジ料理、なんとか風が得意。要するにアバウト料理って事ですね。凝るときは凝るんです。
 突然、何を思うかスパイスから作るカレーを作ろう思ったときが有りました。しかし、当時近くのスーパーにはスパイスが揃っていない。有りそうなスーパーまで何のためらいもなく買いに行き、納得のいくカレー作りをします。タマネギを長時間炒めるために手が熱くなります、手には軍手、頭にはタオルを巻き、一心不乱にタマネギを炒めるのです。鶏肉にも凝りました。 出来たら仲間を集めて試食会。なかなかいいものは出来上がらなかったので、仲間も大変だったことでしょう。
 そんなに苦労して材料を集めていたのに、なぜか一年後には、近くのスーパーでもスパイスの品揃えが充実していました。そして、納得のカレーが一度でき上がったら、飽きやすい私はすっかりカレー熱からは冷めていました。
 パン作りにも精を出しています。おいしく安全なものを食べたい。自分で作るものならば安全度は高いです。美味しいものを作るにつながると思います。若いときから食べ歩きが得意で、安くて美味しいものを求めて歩いていました。今は、安いだけではなく安全を求めています。achaのマイブームに書きます。
   このほか、いまではやっていないものに、テニス、ゴルフ、パッチワーク、ドライブ、映画鑑賞などがあります。
 テニスは体力がなくなったこと、メンバーがだんだん集まらなくなって止め。でも、テニススクールで出会った仲間とは10年らいの付き合いとなっています。ゴルフは環境破壊につながることと光線過敏症になって止め。パッチワークは頸椎椎間板になって止め。ドライブは車を売ってしまい出来ず。映画鑑賞は今でもたまに行きますが、全盛期は年に30本は見ていました。今は、興味をそそる映画がないのも理由か。日本映画頑張って欲しい。
   興味が有るもの 環境問題、現在の食べ物事情、健康。園芸、読書
今やってみたい物、絵手紙。
 
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パソコン歴

 94年にマックのLC630を買いました。今はパワーブックです。いまだにマックに使われています。
 ワープロで情報収集のためにニフティに入りましたが、趣味に合うフォーラムに出会い、パソコン通信にはまりました。ワープロでの通信に限界を感じてパソコンを買ったのです。
 自分のすべてを語るべきホームページを作りたいと99年の秋に思って、形になってきたのが01年の夏。なかなか難しい。

家族
夫が一人。子ども無し。少し前まではハムスター2匹が家族の一員。
しかし、いまは空の上。
職歴

アルバイト2、転職3回目の私の職歴はなかなかおもしろいものだと自分でも思っています。

 高校の時にヤマザキディリーストアーの前進のお菓子屋にアルバイトで働く。ここの女店主がすごかった。どこかのページで書きましょう。
 高校を卒業し、某都市銀行の貸付に配属されました。初めての就職。支店は若い人が多くて、他の支店にいるようなお局様もいず、けっこう自由に過ごさせてもらいました。
 貸付係ですから、社長さんや経理担当重役さんも来店されるわけで、私は結構かわいがってもらいました。
 ある時、定年退職をされた某社の経理担当者の方がその退職金の全額を持って私の前に現れたときはびっくりしました。外回りの営業がどんなにお願いしても、預金の約束が取れなかったのに、私に預けたいと言って来店されたのです。日頃はそんなことは全然言っていなかったのです。誠意を持って接客すれば報われる。と言うことはこのとき勉強しました。
 それ以降いろいろな営業職につきましたが、この銀行の時の経験がいろいろなところで生きていると思います。

 自分で言うもの何ですが、仕事の飲み込みが早く、先の事も考えて仕事をしていました。が、それが不幸を招きました。生まれ持っている責任感の強さと、おっちょこちょいがうまくかみ合わず、細かいミスが重く自分にのしかかってきたのです。
 銀行は99.9%の正しい処理が当たり前と顧客に言われて落ち込みもしました。手形に追われる夢を見たり、胃の調子が悪くなったり、上司が変わって、今までと全然違うやり方にもついていけませんでした。
 お金は命の次に大切なもので、それを何の対価なしにして証書を売るんですね。それに疑問が出ても来ました。
 私は物を売ってお金を頂くのだったらどんなに楽かと思いました。悩んだ末2年9ヶ月で退職しました。

辞めると決心してから職探しはしていました。地元の眼鏡屋に勤めたのです。
 念願の物を売る仕事はおもしろかったです。自分がいいと思ったフレームをお勧めして、売れたときは快感でした。
 仕入れの時にも意見を取り入れてもらって、なかなか楽しい販売生活でした。
 同年代の社員がいてお互いに競い合って眼鏡の加工の仕事、検眼の勉強が楽しかったです。自分自身も目が悪いので、その体験に基づいての接客で喜んでもらえて、やりがいのある仕事でした。
 しかし、商店街の抗争に巻き込まれて、1年1ヶ月で辞める事になったのです。
 いまでも、自分の事でコンタクトの店に行くと、あのまま眼鏡屋にいられたら良かったのになぁ。と思うことがあります。

 そして、次は当時、時代を風靡していた中古車販売店にアルバイトとして入りました。このときにお酒の味を覚えました。ウィスキーの水割りでした。それまでは、乾杯のビール一口で、顔は真っ赤、頭はずきずきと痛み、私は飲めないものと、思っていたのです。ビールのホップも胃に来ていました。
 水割りならば自分の濃さに出来て、自分のペースで飲めたのです。遅くに覚えたお酒は、週末には飲んだくれの私となっていきました。
 会社は有限会社では有るものの個人商店で社長がやりたい放題、会社のお金は自分のお金と使い込んで、私の誕生日に2回目の不渡りを出して倒産しました。給料ももらえず涙の誕生日でした。
 まじめにやっていれば、中古車販売の先駆者だったので、大きく伸びたと思います。でも貧乏人が大金を手にすると、有頂天になってしまうのでしょうね。水商売と女にに手を出してからは坂道を転げ落ちるように没落していきました。
 この社長からも私は信頼を受けましたが、私が入ったときには水商売に大金をつぎ込んだあとで、どうにもならない状態でした。
 仕事は午前中は事務仕事、午後は車庫証明を取るために警察署と法務局巡り。必ずカメラは持って出かけ、外回りのついでにそこかしこで富士山を取っていました。
 ここのお客さんはピンからキリまでいろいろな方が来ました。おとなしいそうな人が、暴走族仕様の車を求めたり、ラジオの渋滞情報の根源がお客さんだったりして、いろいろ楽しかったです。
 やくざやさんのおえらいさんはやっぱり人間的にも出来ている。って事も知りました。
 会社が二度の不渡りを出して倒産して、私は職を失ったわけです。その後、働いていた仲間と会社を創立しようとやっていたものの、債権者に追われてそれも出来ませんでした。

 3ヶ月ほど遊んでいました。銀行時代に貯めていたお金もほとんど使い果たしてしまいました。毎日パチンコに行き、友達の経営する喫茶店に入り浸っていました。
 ある日、その喫茶店で会社が出来なくなった事を話すと、カウンターに座っていた中年の男性が、人を募集している会社が有るから行ったら。と言って  くれて、すぐにそこの所長に紹介してくれました。そして試験、面接。国語、英語、数学、論文。二年は勤めてくださいと言われ、努力しますと答えたのにまさかその会社にこんなに長く居座るとは当時は思ってもいなかったことです。ひょんな事から上場企業に就職出来たわけですが、人間の運、人生の曲がり角はどこに有るのかわかりません。まさしく、これが天が授けた私の運命だったのかな。ここで、この会社に入らなければ、私の人生はどのように形だったんだろうか。ゲームでは無いから、ここからやり直し。は出来ない。人生っておもしろい。

 営業所のデスクというのが最初の職でした。要するに営業事務。通勤も近くて楽でした。何でもやりました。お店からの受発注、商品説明は当然の仕事で、銀行、郵便局に行き、会社の備品、文房具の購入、トイレ掃除、電球の取り替え、草刈り、コピー機のメンテ、排水溝の詰まりの対応。オールマイティ何でもこなしました。
 年末の納会時にはおでんを作ったり、つまみをそろえるため、販売数字を締めてからから走り回りました。
 営業所は関係会社が3社入っていましたが、全体でも20名弱の人数、毎年営業所全体で旅行にも出たし、春には花見にも行きました。今のように休みの日に何で会社の人と会わなければならないの。なんて疑問はみじんもなく楽しい。って雰囲気で、コミニュケーションもいいし、和気藹々、アットホームな営業所ライフでした。
 そして、時代の波にも乗って、毎年前年比140%で成績は上がったのです。いい時代でした。
 しかし、営業所は平成3年の秋に発展的解消という名の元に閉鎖したのでした。
バブルがはじける前から前年比割れが続いていました。今思えば、営業所の雰囲気が悪くなって、コミニュケーションも悪くなって、売り上げも落ちたのです。仕事にどれだけ人間関係が大切か。必要か。目の当たりにしました。上司の人間性が営業所の運命までも変えるのです。
 そして、異動発令が出て、近くの事業所に行ったのです。

 慣れない経理の仕事を7年近くしました。何百人もいる所ので今までの環境と全然違い、トイレ掃除も、草刈りも専任者がいて、本来の仕事だけをすればいいことに、なんだかうれしいような物足りないような。同じ会社なのにこんなに環境が違うのか。なんか納得がいかないなぁ。と思っていてもすぐに環境に順応するのです。
 決算時の残業は何度やってもいやでした。地獄の時と呼んでいました。あと何回この時間を過ごせばいいのだろうかと考え出しました。毎日夕飯を会社で食べ、帰ってきてからは寝るだけです。それでも、横須賀に住んでいるときは車で会社に通い、通勤時間15分だったので、まだ良かったのです。
 結婚して二人の職場の中ほどに住居を置き、私の通勤時間は4倍の1時間になりました。それからは、残業がより一層辛くなりました。
そして、自らが望んで今の職に異動しました。

 これまた、今までと全然雰囲気が違う世界。慣れるまで時間もかかり、慣れたと思ったら、身体がストライキを起こしました。
 体調を崩してから、2年。苦しい年でした。人間健康が第一です。体調が悪いのは何もかもが嫌になってしまいます。この2年間はいろいろな事をしました。ここで、西洋医学には限りが有ると思ったのでしょう。
 何回か職場が変わりながらも、どうにかやっています。いつでも自分が自分らしくし、なんにでも誠意を尽くせば報われる。と言うことを実感しています。
 そして、職場が変わっても今でも付き合いがある人が多々います。ありがたい事だと思っています。

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病歴

 幼稚園から中学の2年まで、自家中毒が持病となり、季節の変わり目には一週間以上学校を休み、ひどいときには半月も行けなかったのです。
 特に小学校時代は年間にどれだけ休んでいたか。いま、カタカナに弱かったり、算数に弱いのはきっと小学校の時に休んでいたからだと、自分を慰めています。
 小1の春の遠足の朝、起きたら発病していました。この病気は突然来るんですね。母親に言えば、遠足に行けない、初めての遠足だから行きたい。不調で有ることをじっと我慢して見付からないようにしていたのです。自分でもこの状態で遠足に行けるわけはないと思っていても、行きたい気持ちの方が勝っていたのです。
 母親がお弁当を作り終えて、私の不調に気づいたけど、そんなに行きたいのならばと、学校まで送られて行ったものの、途中何度も気持ち悪くなり、立ち止まり、やっと学校に着いたのでした。
 しかし、ついに学校の松の木の下でもどしてしまいました。遠くで母親と担任が話している姿が私の記憶にあるのでいが、どうやって帰ったか覚えていないけど、情けなかった。

 

 中学の3年の時に腰が悪いことがわかったのです。どうも生まれ持って背骨に第六の小さい骨があり、その軟骨の間が狭くなっての腰痛でした。初めは足の付け根が痛くて病院に行ったのですが、診察の結果腰の方から来ているとわかりました。
 そして、なぜか治療を始めたら本当に腰が痛くなり、中3の時は歩くこともままならず座ることも辛く、風邪を引いて寝ていることも出来ませんでした。高校の一年まで体育の授業は免除してもらいました。
 高校では腰をかばう座り方が、態度がでかいと先生からしかられたことも有りました。今思うと、あの時に牽引治療をしていなかったらどうなっていたのだろうか。腰は痛くならなかったのだろうか、それとも・・・
 腰痛とは長い付き合いになっています。学生の時の方が動きが激しいのか、社会に出てからは、ひどい腰痛にはならなくなりました。しかし、疲れがたまってくると、足が上がらなくなったり、臀部が痛くなったりし、そのまま無理をしていると、時にぎっくり腰のように襲ってきます。 腰の調子が悪いときは無理をしない。と決めています。痛くなったら出来るが限り横になって休む。
 旅先や、旅に出る前に腰痛に襲われたことは、何度も有ります。それも旅のいい想い出です。
 腰をよく動かして、腹筋つけて腰痛予防と言うことで、テニスもゴルフもしました。しかし、ここのところ運動不足。なにかしなくては。

   四歳の時に、バイクに引っかけられる事故に遭いました。額を3針ほど縫ったのですが、これが30年が過ぎて私の身体をいじめるのです。
 中学の時から悩まされていた肩こりはこのときのむち打ちから来ているらしい。頭を打ったことは確かですが、4才の子にむち打ちの症状がわかるはずもなく、きっとそのままなんでしょう。34才で頸椎椎間板症と診断されました。このときに以前にひどいむち打ちをやっていますね。32才の時にも軽いむち打ちをやっていますと言うと、もっと昔にやっていませんか、と言われ、4才の事故を思い出したのです。今では額の傷もほとんど目立たなくなりすっかり忘れていたことでした。マウスを動かすのもままならないくらい、首、腕、肩が痛いのです。寝返りさえも辛いのです。冬は肩を暖めて寝ました。
 車の運転を止めてからは首の具合はだいぶ良くなり、腕のしびれも無いのです。首の筋肉運動をしなくてはと思いつつ、忘れてしまうのです。振り返るときはゆっくり。これがぎっくり首の予防法です。しかし、肩こりはいつものようです。凝りすぎて自覚症状がない場合もあり、朝顔を洗っていて、首をグギとやって、ああ、凝っていたのか。って気づくのです。
 たまに温泉場でマッサージにかかると、だいたいのマッサージ師がむち打ちやっていますね。と言います。そんなにひどいのかしら、私の肩こり。

 銀行の時に慢性胃炎になり、営業職時代にも再発し、あげくに自律神経までもおかしくしたのです。入社8年目でいろいろとストレスもたまっていたのです。苦しい時代でした。寝ても寝ても疲れがとれず、不調感が続いたのです自律神経からの脱出は大変な苦労でした。まず、自律神経が何であるかを知らないうちには克服できないのです。自分の病気に酔いしれるというか、どっぷりと浸かっているときには治し方もわからないし、人の言うことは信じられないのです。
 しかし、ある時新聞に載っていた本の紹介が妙に目を引き、なにげなくその本を買いました。それが目から鱗でした。強制的に交感神経を起こす運動をし、早朝に散歩をしました。私以上にひどい人は沢山いることも知り、私みたいのは序の口。すぐに治る。と自分を励ましたのでした。朝寝坊だった私が早起き人になったのです。最初は辛かった。低血圧だから朝は起きにくいのだと決めつけていたのに、起きれば起きられるのです。

 なれない経理の仕事を7年近くやり、あんまりやっていなかった残業をして気づかない間に疲れが身体の隅々までたまっていたようでした。私の身体がストライキを起こしました。
 新しい職場に異動して、仕事も慣れてきてわかってきて気がゆるんだとたんに風邪を立て続けに3回引いて、最後の時に40度近い高熱を出したのです。その前にも突然の下痢に見回れたりと、どうも私の身体が変調している。
 熱を出したあとは、半年は会社に行くのがやっと、会社の帰りに買い物したり、寄り道したりなんて全然出来なかったのです。とにかくだるい。気力体力がごっそりと抜け出てしまい、会社から帰ってくると、ごろごろするだけ。半年経っても体調が戻らず、こんなに疲れるのはどこがおかしいのか。内科に行っても異常なし。婦人科に行ってみるか。と行ってやっぱり異常なし。漢方薬をもらい、鍼を勧められる。そして、もう一度内科で検査。すると、どうも甲状腺の数値が安定していない。
 何回か血液検査をすると、そのたびに数値は逆転する。今までも突然の不調に見回れるのはこれが原因だったのか。数値が一定していないので、服用する薬はなし。とにかく疲れたら休みなさい。と言われる。
 鍼には一年通いました。少しずつ少しずつ不調感が取れていき、不調になる周期が延びていきました。そして、二年経ってやっとどうにかこうにかなってきましたが、二年前の体力には戻りませんでした。
 鍼の先生にはいろいろなことを教わりました。鍼がそんなに効くものとは思ってはいなかったのですが、腰に鍼を刺すとお腹がごろごろと動き出したり、足先に打つと肩にくる。これはすごい。人間の身体は不思議だ。
 行くたびにお腹が冷たい、身体が冷えている。と言われました。私の身体は人の何倍も冷えているようでした。その冷えを治さなければ次には進めない。自分の事を自分でコントロールしなければ。
 先生との話で、食生活について。気について。教えてもらい、前から私が持っていた知識が結構正しかったこともわかりました。ただ、知ってはいても、習得はしていなかったのです。先生との話でそれらが自分ものとなり、実践出来ていきました。そんなときに、本屋で新藤義晴先生の、冷え取り健康法の本に出会いました。

 いろいろな病気をして行くうちに、病は自分で治せるものは治した方がいい。医者や薬を全面的に頼ってはならない。自分で治すって気持ちが出てこないと、病気は治らないって事がわかってきたのです。

ダイエット歴

こんにゃくダイエット、粉ミルク、水ダイエット、ダンベル、鈴木式
習い事
お習字、そろばん、機械編み、着付け、お花、テニス、パン
信条
自然回帰。どうにかなるさ。温故知新
免許.資格

珠算3級。簿記2級。カナタイプ、和文タイプ3級。
普通運転免許。 国内旅行検定C級。 損害保険資格特級工場。
ホームメード協会パン講師(H13.11)
山田博士いのちの研究所発行 「いのちの運転免許証2級」(H14.5.25)
文部科学大臣認可 「食生活アドバイザー2級」 合格(H14.11)

夢 
自給自足の生活をしてみたい。季節のものを食べ、晴耕雨読の田舎暮らし。しかし、終の棲家を見つけるのは難しいようです。5年計画を立てて、2年目に入っていますが、まだどこにすむかの暫定も進んでいないのです。どこかの空の下で、心を癒す場所の提供をして、のんびり暮らしたい。
最後までありがとうございました。